飼い犬に手を噛まれちゃった!

って、私なら、どうして犬の歯を抜いておかなかったの?

って思うわ!


人間ってそういうものよ。
遅かれ早かれ噛むのだわ!

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ドーラ・シーラという魔女は、”悪意の魔女”と呼ばれながら
しかし、明確な悪意でもって人間を含む生物を蹂躙した事がない。
ただ、そう、彼女は
血の臭いに引き寄せられる鮫なのだ。
本能的に人間の心の傷、痛み、苦しみ、そういうものを嗅ぎ付け、
鼻をつっこんで貪らずにいられない。

ダーシャ・ヴェルとの出会いもそういうものであった。
シーラにとって取るに足らない―捨て犬を拾うような感覚で手を引いた、彼を
自分の騎士として選び、何年もかけ傍に置いた事に意味はつけられない。
彼女はただ、ダーシャから漂う陰惨な香りに誘われ、
彼の心を食い荒らさずにはいられなかったのだ。

冷血であり、心らしい心を持たない、ドーラ・シーラという魔女は
そうして、ぽっかり明いた胸の空腹を満たすのかもしれない。
彼が苛まれ、苦しめば苦しむほどに、
シーラは、恋人を甘やかすような優しい気持ちを覚える―多分、
それは、好奇心が満たされるという感覚だった。

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(ころしてください、ころしてください、
 ころしてください、ころしてください、
 シーラさま。ドーラ・シーラさま。
 おねがいです。
 ころしてください、ころしてください、)



















ドーラ・シーラは、短い溜息と共に、どうしたものかしら、と呟く。



(ダーシャが逃げ出すなんて…)
 


「飼い主の手を噛む犬への対処って、どんなものがあるかしら
ようく躾けるか、歯を抜いてしまうか、ばかにしてしまうか、殺してしまうか
そんなところなのかしら?」
 

けれど重要なのはきっと、どうして犬を飼うのかということだわ。

歯を抜いては、番犬の役目が出来ない。
殺してしまっても、どうせ別のものを飼うのでしょ?
ようく躾けたつもりだった、脳を細工するのは―
気が進まない。
私がダーシャを傍においていたのは、彼が興味深かったからに違いないのだもの。
彼を改造しないでおいたのは、私がまだ、ダーシャというパズルを解ききっていないからだわ。
ダーシャ、あの子、
何故― 
今更人間のように振舞いたがるのかしら?
いつでも私の木偶だったじゃあない?殺せと言えば殺したでしょう?
私の命令に従う事で気持ちがよかったのでしょう?
それはあなたが人間らしい人間ではなく 人間に頭の上がらない隷属の血袋に違いないからなのだわ
人間ってとても素敵なのよ、あなたにあるのはそのなごり。
また人間に戻る事など今更だわ。とっても今更だわ!
殺せと言えば、殺せばいいのよ。難しくかんがえちゃいけないわ。
ねえ?

(もしも、もしもよ?先祖の記憶を思い出すように、あるとき突然、
又は進化を遂げるように。あなたが人間味を取り戻すと言うのなら
それはとても不思議で、不思議ってことは、私はちゃあんと凝視しないと、嫌だもの!うふふふっ)
 










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ドーラ・シーラは繰り返す。

ねえダーシャ、あなたの自由にしていいのよ。

私はあなたを否定したりしないわ。

けれど私のお願いを聞いて。

それがお前の望み。

しらんぷりしてもだめよ、ようく、ようく、自分の胸にきいてみなさいな!


そうして、彼を混乱させ、やがて疑問が鈍磨し
当然備わっているはずの 理不尽に対する抵抗力すら失って行く、
単純な刺激と反応ができなくなる――人の心が破壊されていく様は
シーラにとって、やはり、面白いのだ。
シーラには、ダーシャを傷つけていると言う認識すらない。
彼女は、自分が好奇心を満たす事を崇高な行為だと思いもしなければ、
彼が物事に鈍感になり、心を失っていく事に優越を感じもしない。
ただ、同じ用にして、別な形で、生物らしい、学習行動に身をゆだねているのだと感じている。
そして、目を凝らしても何も無い、暗闇のがけっぷちを映しているような彼の瞳に
人間の残り香を感じる時、踏みにじりたいという衝動だけがある。

シーラは、人間に対してとても短絡的であった。

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(ころしてください ころしてください
 ころしてください ころしてください)















地面が動く。いや、うごめくという表現の方が正しいかもしれない。
地面が一人でにうごめいている。




「絶望しないで。私あなたにひどいことなんて何もできないわ!
ねえ、少し待って、そのうちとっても素敵になるわ。」
 



アンジニティの暗い光の中、何処からみても地面でしかないそれは
ぬかるみ、ポコポコと重たい泡をあげる。
その泡が弾ける度に、ころしてください、と言う人間の声が響くのだ。



こんな土地なのだから、
もし、自分に善くしてくれるようであれば、護衛として従えてもよかった。
しかし彼はシーラに魅入られはしなかった。故に


シーラが地面を切り分ける。
3分の1程をバケツにすくい、瓶に取り分けていく。
次に手近な魔物を誘導し、水浴びをするように体にぬりたくらせた。
そして、残りを川に流した。
ヘドロが四散していく。意識とともに。








(肯定を欲しがる。自分と言う存在を固定する術を持たない
不定形の存在。
ダーシャもきっと、この元ヒトの様な状態なの。きっと自分が何であるか、何にも解りはしないのだわ。)
 













犬が人間を噛むのは、牙に対する過信だわ。
驕っているの、その牙で、多少なりと飼い主を困らせることができるのだと。
ねえ?ダーシャ。あなたは元々歯のない犬だわ。
どうしたって、私の寝首をかいたりはできないの。
だってあなたはとり憑く依り代を探して彷徨う迷子の亡霊みたいなものだもの。
ねえ。そうよねえ、ダーシャ。
あなた私に反論できるの?言ってみなさいな、何でも聞いてあげちゃうから。ねえ。
ねえねえ、ねえ?